sachi LOG

認定NPO法人D×P(ディーピー)で広報・マーケ・ファンドレイジングをやりつつ、オカン業もやっている入谷佐知の日々のログです。ブランド経営コンサルタントの師匠の元で修行したのち、現職。

「自分の子どもは自分じゃないけど、同一化も成長にとって大事なのかも」と思ったけどやっぱ別人やわという話

私は、どちらかというと、父性が強いほうの母親なのかもしれない。娘と自分を似たものだと感じられない。娘は娘で、娘の人生があるし、娘の生き方がある。私は私で、私の人生があるし、私の生き方があるでしょ って思っちゃう。 だれかが語る娘への評価と自分への評価はつながらない。


ここまで読むと、「何を当たり前のことを」と思うかもしれない。でも、母たちは、うーんと唸るかもしれない。正論だけど、ちょっと違うぞと。そもそもお腹の中にいたときに、母子の境界線は見えづらかった。自分の食べたものは子どもをつたい、子どもが動けば自分のお腹がポコポコ動いた。一体だった。


「 自分の子ども=自分 」ではないよ!という言説をよく聞くし、私もそう思うんだけど。

 

でも最近、たくさんの母たちに出会い、あれこれ勉強するなかで考えが変わってきた。自分の子どもとの深い連なりを感じ取り、輪郭のないままボヤンと立っている「親的な存在」が、本当は「人の成長」にとって必要なのかもしれないと思うようになった。自分事のように、泣き、笑い、傷つき。子宮のように、全身を抱きしめる。そんな存在が要ったのかもしれない。

 

余談ですが、『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』という漫画がほんとに示唆に富んでるんだけど、そこに「母という概念」にすがる筆者像があって慄いた。

 

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ

 

 (この本、「レズ風俗レポ」としての描写はあまりなくて、「さびしすぎて」の詳細を可能な限り言語化した稀有な作品です。生きるのがしんどい一人の女性が、「しんどさ」を言語化していく課程が凄まじかった。永田先生はすごい。そして、「母」への執着が、すごい…。。驚愕しました。。)

 

そんなことを考えていると、部屋をうろうろしている娘が目にうつったので、手招きして、抱きしめてみる。娘はにっこり笑いながら手を伸ばして寄ってきて、満足気に私を抱きしめ返す。私の背中を締めつけるほど強い腕力にぎょっとする。彼女の腕や足は日焼けして、うっすら筋肉が張っている。日中はひたすら園庭を走り回っているからだ。土の匂い。太陽の匂い。汗の匂い。彼女から感じるのは「全身で土の上で遊んできました!」と言わんばかりの躍動感だった。


抱きしめれば、彼女と私が同一のように感じられるかと思ったけど、感じたのは、娘という個体と私という個体がまったく別物であるということばかりだった。


「ごめん、私はもうあなたの子宮にはなれないや」と心の中で詫びた。そして、ウキウキする自分もいた。全然違う人生のひと2人(夫と娘)の成長を横で見られるなんて。特等席だ。そして、彼らの成長に負けるもんか。


精神的なものはよくわからない。親として何が正解かもよくわからない。でも、私自身が健康体で、娘をよく見て、たまに抱きしめていれば、それだけでいいのかもしれない と思った。


彼女と二人で台所に向かうと、kindle片手にお茶をすする夫がいたので、娘と二人で突撃して抱きしめた。

私たちは全く別の人生を歩む3人だ。

奇跡はこの瞬間に起きている。

 

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むすめと夕暮れの影あそび。一乗寺にある八百屋さんmusubi-yaさんにて。 #5歳児 #影あそび #影絵 #一乗寺 #八百屋さん #shadowgraph #shadow